北イタリアの見所

バチカン

 イタリアは日本と同じく国土が南北に長く、見所の多い北イタリアの都市を巡るだけで1週間、イタリアを1週しようとすると最低2週間は必要になります。

 そこで、今回、イタリアは広いですが、ここでは私達が旅行したイタリアの中でもイタリア北部の観光地や見所について紹介していきたいと思います。

北イタリアの見所ページ内一覧

ミラノ

ファッションショウのようす

 ミラノは、イタリア第2の都市で、ロンバルディア州に属し、人口は約130万人で、日本の大阪とは姉妹都市です。

 第二次世界大戦で連合国からの激しい爆撃で、多くの歴史的建物を消失しましたが、戦後は新しいものと古いものを融合した都市として、急速に発展し現在に至っています。

 ミラノは、イタリアの「商業」の中心で、世界三代ファッションの一つ「ミラノ・コレクション」(他はパリ、ニューヨーク)は有名です。

スフォルツァ城

スフォルツァ城正面入り口

 中世後期とルネッサンス期には、ミラノはヴィスコンティ家とスフォルツァ家のの2大貴族によって統治されていました。

スフォルツァ城の中庭で撮影

 スフォルツァ城は、そのうちのスフォルツァ家の居城で、城の建築にはレオナルド・ダ・ビンチも参加したといわれており、現在は博物館と美術館として公開されています。

 注目は、美術館の彫刻部門にあるミケランジェロの「ロンダニーニのピエタ」で、死の数日前まで制作していたという未完成の大理石像です。

スフォルツァ城の備考

 開館時間:9時~17時30分(最終入場17時)
 行き方:地下鉄1号線Cairoli下車
 入場料:3ユーロ(要確認)
 休館日:月曜日

ドゥオモ Duomo(大聖堂)

ドゥオモ Duomo(大聖堂)の屋上

 このドゥオモはミラノのシンボルであるイタリア最大のゴシック建築で、1386年にミラノを統治していたジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティーにより着工され、500年後の1887年、ナポレオンの時代に尖塔が取り付けられて完成しました。

ドゥオモ Duomo(大聖堂)の屋上に行くチケット

 大きさは、奥行き157メーター、高さ108.5メーターで、頂にはマドニーナと呼ばれる黄金の聖母像が鎮座していて、尖塔は135本造られ、その頂には彫刻の像が取り付けられています。

 中に入ると中央祭壇の下には、大司教カルロ・ボッロメオの遺骨を祀った地下礼拝堂があり、その隣には14~17世紀の銀製の聖具や象牙製品が陳列されています。

 そして、ドゥオモの屋上へは、階段やエレベーターで行くこともでき、ドゥオモを見ながら、左方向に進むとチケット売り場、そのまだ先にエレベーター乗り場があります。

ドゥオモ Duomoの備考

 料金:エレベーター 12ユーロ
 開館時間:7時~19時 年中無休
 屋上:
 ・3/28~10/24 9時~22時(18時以降はエレベーター利用のみ)
 ・10/25~2/7  9時~16時20分
 ・2/8~3/27  9時~17時20分

ビットリオ・エマヌエレ2世ガレリア

ビットリオ・エマヌエレ2世ガレリア

 このガレリア(アーケード)はイタリアの建築家「ジュゼッペ・メンゴーニ」によって、1865年から1877年の間に建設されたものです。

 通りは石造りを基盤に、ガラスのアーチと鉄製の屋根に覆われており、19世紀のショッピングモール及びイギリスのロンドンにもある「バーリントンアーケード」のようなデザインです。

 アーケードの名前のビットリオ・エマヌエレ2世は1820年生まれのサルデューニャ王国の最後の王で、のちイタリア統一戦争に終止符を打ち、イタリア王国の初代国王となった人で、「王国の国父」と呼ばれています。

スカラ座

 現在の建物は2代目のもので、初代の歴史的建築物のテアトロ・ドゥカーレは1776年2月25日の謝肉祭のガラ・コンサートのあと焼失しました。

オペラ座正面入り口

 劇場の再建には、当時、劇場のバルコニー席を持つ裕福な90人の市民が、オーストリア大公フェルディナントに新しい劇場の建設と新劇場完成までの仮劇場の提供を依頼しました。

 当時、北イタリア(ミラノを含む)はオーストリア領であったためで、1776年オーストリアのオペラ座より簡素であることと言う条件を満たした第二案の設計がマリア・テレジアにより承認され、1778年8月3日落成しました。

 イタリアで誕生したオペラは「神々への賛辞のための音楽」と呼ばれ、ミラノ・スカラ座が世界的に有名で、建物の前には、レオナルド・ダ・ヴィンチの像があります。

 オペラのチケットは、地下鉄「ドゥオモ」駅のインフォメーションで買うことができます。

ヴェローナ(ベローナ)

ヴェローナの中心の風景 ヴェローナの円形競技場

 ヴェローナはヴェネト州、ヴェローナ県の県庁所在地で、ミラノとベネチアの中間に位置し、人口25万人の中世の面影を色濃く残す街です。

シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」の舞台となったといわれるジュリエットの家 ジュリエット像

 旧市街地は2000年に「世界遺産」に登録され、シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」の舞台としても有名ですが、夏には世界最大規模の野外オペラが「アレーナ(円形競技場)で催されることでも有名です。

ベネチア(ベネチィア・ヴェネチィア)

ベネチアリアルト橋を運河から見る

 ベネチアはヴェネト州の州都で、人口、約27万人のアドリア海の最深部に位置し、大小の多くの島々によって形成されている為、ベネチアの交通手段の主流は運河を行き来する船で、あとは、細く曲がりくねった道を歩く以外ありません。

ベネチアの街の風景

ベネチアは「水の都」「アドリア海の女王」「アドリア海の真珠」などと呼ばれ、中世には大きな権力を持つ街になりました。

仮装した人々

 ベネチアに入るには船と列車(車は乗り入れできません)で、列車では、ベネチア・メストレ駅で降りないで、あと10分ほど乗って、「ベネチア・サンタ・ルチア駅」でおりましょう。

サン・マルコ寺院

 828年にエジプトのアレキサンドリアから運ばれた「聖マルコ」の遺体を安置する為に、9世紀に入って建てられた寺院で、11世紀と17世紀、火災に2度あい大幅に改装された。

 聖マルコはこの街の守護聖人で、彼のシンボルの「有翼の獅子」は、正面入り口上の、一番大きな天辺に、聖マルコ像と供に飾られています。

サン・マルコ寺院入り口モザイク画

 正面の、5つ並んだ2層のそれぞれのアーチには、聖マルコの遺体をエジプトから持ち帰る一連の伝説が黄金のモザイクで描かれていて、一番右端には、聖マルコの遺体を豚肉の下に隠して、エジプトの検察を通るようすが描かれています。

 入り口上部のバルコニーにある4頭の青銅馬像は、13世紀にヴェネティアの十字軍がコンスタンティノープルから持ち帰ったものだが、飾られているのはコピーで、本物は2階の博物館にあります。

 内部はモザイク画で豪華に飾られています。主祭壇の後方にこの寺の至宝パラ・ドーロがある。およそ1300粒の真珠、400のガーネット、300エメラルド、90のアメジストほかルビーなどがちりばめられた豪華な祭壇画です。

サン・マルコ寺院の備考

 開館時間:
 ・夏季 9時45分~17時 (日祝 14時~17時)
 ・冬季 9時45分~17時 (日祝 14時~16時)

ドゥカーレ宮殿とため息橋

 ベネチア共和国総督の居城として使われていた宮殿で、国会、行政、裁判を司る政庁がおかれていた。

ため息橋

 見所は、ベネチア派による絵画の傑作で、なかでも必見は、2階の大評議の間にあるティントレット「天国Paradiso」で、7メートル×22メートル有り、世界最大の絵画といわれている。

 また、同じ階には、16世紀に白い大理石で造られた、隣接する牢獄へと続く、覆いのかった小さな橋があり、その橋には、数個の明り取りの窓の有ります。

 そして、投獄される囚人がその窓から、ベネチアの街を見て「これが見納めかとため息をついた」というので、19世紀ジョージ・バイロンが「ため息橋」と名づけたといわれています。

フィレンツェ

フィレンツェのマップ

 トスカーナ州の州都で、人口35万人「花の都」と呼ばれるにふさわしい美しい街で、ルネッサンスを開花させた「メディチ家」の庇護のもと、多くの芸術家が作品を残している。

ヴェッキオ橋

ヴェッキオ橋

 アルノ川にかかるフィレンツェ最古の2階建ての橋で、ピッティ宮とウッフィツィイ美術館を結び、1階には貴金属店が軒をつらね、ヴェッキオとは「古い」という意味で、この橋がある場所はアルノ川の幅が最も狭いところです。

ヴェッキオ橋の一階部分

 第2次大戦中、ドイツ軍は北に逃れる際、連合軍の追っ手を遮るために、アルノ川にかかる橋を全て破壊しようとしましたが、一人のドイツ人将校はこのヴェッキオ橋を「壊すのには惜しいほどの美しさ」と考え、破壊しなかった為、現在に残っているそうです。

ウフィツィ美術館

ウフィツィ美術館

 メディチ家の膨大な美術コレクションを集めた美術館で、ここは、もともとはメディチ家の事務局、フィレンツェ公国の行政局(ウフィツィ=オフィス)として建てられたことにちなんだものである。

 美術館は2階と3階に別れており、2階はミケランジェロ、ダ・ヴィンチなどの、デッサンと版画の部屋あり、3階が絵画館で、長いローカに沿って45の展示室がならんでいて、ローカにはローマ時代の胸像がならんでいる。

 3階のコレクションの中には、ボッティチェッリの「春」「ヴィーナスの誕生」、ミケランジェロの「聖家族」、ラファエッロの「ひわの聖母」などがある。

 ここから、川向こうのピッティ宮へとつながるヴァザーリの回廊(要予約、期間限定)へはダ・ヴィンチ、ティツィアーノなどのおおくの画家の肖像画が飾られている。

ウフィツィ美術館の備考

 開館時間:8時15分~18時50分
 休館日:月曜日、1/1、5/1、12/25
 予約(ホームページ):http://www.firenzemusei.it

ドゥオモとドゥオモ広場

ドゥオモとジョットの鐘楼

 ドゥオモ「花の聖母教会」とも呼ばれるフィレンツェのシンボルで、1296年に着工され、175年の歳月をかけて完成された。

 周囲の建物に比べ、ひときは色鮮やかな、白とピンクと緑の大理石の、幾何学模様で飾られた大聖堂は、典型的なイタリア・ゴシック様式を取り入れている。

 内部は角柱で3廊に仕切られていて、外観と異なりシンプルな内装と開放的な広い空間が、厳かな雰囲気を作っている。

 ドゥオモの隣にある「ジョットの鐘楼」は14世紀の4もので、高さは85メーターあり、414段の階段を登って上に行くこともでき、フィレンツェの街を一望できます。

ドゥオモの備考

 開館時間:
 ・10時~17時
 (土10時~16時45分、木10時~16時30分、5・10月の木10時~15時30分、7・9月の木10時~17時)
 ・日、祝13時30分~16時45分
 ・1/1、復活祭、12/25、15時30分~16時45分

 休館日:1/6

ジョットの鐘楼の備考

 開館時間:8時30分~19時30分、1/6 8時30分~14時(最終入場は閉館時間40分前まで)
 休館日:1/1、復活祭の日曜日、9/8、12/25
 入館料:6ユーロ(要確認)

ミケランジェロ広場

ミケランジェロ広場からフィレンツェ市内を見渡す

 街の東南、アルノ川の対岸にある高台の広場で、テレビやフィレンツェのポスターでお馴染みの景色を堪能できる場所です。

ピサ

 トスカーナ州ピサ県の県都、「ピサの斜塔」があることで有で、ガリレオ・ガリレイの出身地でもある。

ピサの斜塔

ピサの斜塔

 市旧市街の北にある、ミラコリ広場の建物の一つで、ピサ・ロマネスク様式の大理石の塔で、大聖堂の鐘楼として1173年に着工されました。

 しかし、ピサはアルノ川が運んできた土砂の上にあるため地盤が大変弱く、この塔は1185年に第3層(10メートル)まで出来上がった時にすでに地盤沈下の為に傾き始めたので、工事は一時中断されました。

 そのため、工事は第二次、第三次と間隔をあけて進められましたが、傾きを修正することはできず、そのまま54メートルの塔が建てられ、着工から199年もの歳月を経て、1372年に完成しました。

 塔は白大理石を用いた円筒形で、14,453トン外周の直径は17メートルにおよび、高さは北側で54.8メートル南側で55.65メートル、南へ向かって4メートル50センチ傾いていて、塔の南側の地盤沈下は2.4メートルにもなります。

 一番下の部分は開口部分の無いアーチ(ブラインド・アーケード)が並び、ひし形模様で飾られていますが、この様式はピサ独特のもので、塔の内部は重心をできるだけ内側に落とすよう工夫され7.7メートルの空洞となっています。

洗礼堂

 余談ですが、ピサはガリレオ・ガリレイが生まれた町で、ピサの斜塔からおおきさの異なる球を落として「落体の法則」を発見したという話は有名ですが、この話は弟子の創作だそうです。

ピサの斜塔とドゥオモの入場券

 ピサの斜塔とドゥオモの入場料は15ユーロ、(日本で予約及びチケット購入なら17ユーロ)ちなみに真冬の今日(2月5日)は当日券でも登れたようです。

ピサの斜塔の備考

 ホームページ:http://www.opapisa.it/

バチカン(ヴァティカン)市国

バチカンの衛兵

 バチカンはローマ教皇庁によって統治されるカトリック教会と東方典礼カトリック教会の中心地、いわば「総本山」で、バチカンの統治者はローマ教皇です。

 バチカンという名称は、この地の元々の名前であった「ウァティカヌスの丘」(Mons Vaticanus) からとられていて、バチカンの地は古代以来ローマの郊外にあって人の住む地域ではなかったが、キリスト教以前から一種の聖なる地だったと考えられています。

 カトリック教会の中心地となった元々の理由は、この場所で聖ペトロが殉教したという伝承があったため、326年にコンスタンティヌス1世によって使徒ペトロの墓所とされたこの地に最初の教会堂が建てられたからです。

サン・ピエトロ寺院

サン・ピエトロ寺院 サン・ピエトロ寺院内部

 この寺院は、324年に聖ペテロの墓と伝えられる場所の上に創建され、歴代の教皇が葬られていて、現在の建物は、サンガッロ、ラファエッロ、ミケランジェロらの設計のもと、1626年に完成されたものです。

 内部はもとより、建物自体が美しく、イタリア・ルネッサンスを代表する建築物として名高く、内部には、正面入り口を入ってすぐ右手に、ミケランジェロが25歳の時に完成させた、大理石像「ピエタ」があり、キリストを抱くマリアの左肩から掛かっているタスキ状の衣装部分にミケランジェロの名前が彫られています。

 中央にある主祭壇の下に聖ペテロの墓があり、その天井部分はミケランジェロが設計した大クーポラで、二重構造になっています。

サン・ピエトロ寺院入り口

 祭壇の右側には「聖ペテロのブロンズ像(Statua di San Pietro)」があり黄金色に輝いているのは、訪れた信徒がこの像に接吻し、手に触れるためである。

コンクラーベ

 コンクラーベはラテン語で「鍵を掛ける」という意味で、教皇選出をコンクラーベと言うようになったのは13世紀のことだそうです。

 1268年クレメンス4世(フランス出身)死後、枢機卿の中でフランス派とイタリア派が対立(当時、枢機卿は中欧と南欧の人のみ)し、なかなか教皇が決まらなかったそうです。

 1年半以上たっても決まらないので、怒った市民がヴィテルボ村で協議していた枢機卿達を教会の中に閉じ込め扉に鍵を掛けたのが始まりです。

 市民たちは食物の差し入れも少なくし、外部と連絡を取れないようにしましたが、その当時の枢機卿は年齢も若く、体力もあったようで、決まったのはそれから15ヶ月も後のことです。

 2年10ヵ月後に選ばれた教皇グレゴリウス10世は、自分の選ばれた経緯を知っている為、教皇は20日以内に選出する事、選出時には外界から隔離する事、質素な食事にするなどを決めました。

 今回も健康的だが質素な食事が提供され(スープ、スパゲティ、小さな肉のケバブ、ゆでた野菜)投票を長引かせたいと思うような料理は一つも無いそうです。ちなみにコンクラーベがコンクールの語源となったそうです。

サン・ピエトロ広場

 この広場は、両側に半円形の回廊が渡り、ドーリア式の円柱284本が並ぶ壮麗な広場で、回廊の屋根の部分には140人の聖人像が並び正面にサン・ピエトロ寺院が建っています。

 ドーリア式の円柱は、広場のある地点に立つと、一番広場側の柱の陰に、後ろの柱すべてが隠れて、内側の1本柱のように見えます。

 毎週日曜日の正午には、右手の建物の最上階の右から2つ目の窓から、教皇が広場に集まった人々に祝福することになっています。

ローマ

ローマの凱旋門

 イタリアの首都、人口約270万人で、政治、経済、文化の中心であり、「永遠の都」と称されるローマは歴史的建造物が数多く残る美しい街である。

 ローマはまた、かつての栄光を物語る「すべての道はローマに通ず」「ローマは1日にしてならず」などの格言でも有名である。

 市内にはローマ教皇が居住する、カトリックの総本山の「バチカン市国」を有し、多くのカトリック信者や観光客が訪れる。

コロッセオ(コロッセウム)

ライトアップされたコロッセオ

 コロッセオ(コロッセウム)はネロ帝の黄金宮殿(ドムス・アウレア)の庭園にあった人工池の跡地に、ヴェスパシアヌス帝の命により、80年に完成された円形闘技場です。

 構造は火山灰を利用したコンクリートで出来ていて、鉄骨を用いないコンクリートにも関わらず、幾多の地震の際も崩壊しなかったのは、全体が円筒形で力学的に安定していたためです。

 収容人員は5万人以上を有し、開始に当たっては、100日間に渡りイベントが続けられ、数百人の剣闘士が闘い命を落としていて、その後も、猛獣と人間が戦う姿や、剣闘士同士の戦いに、人々は熱狂していました。

 6世紀半ばにキリスト教が公認されると、催しは廃止され、迫害時代にここで殉教したキリスト教徒を祀る場になりましたが、迫害された確たる証拠はありません。

 それでも、ローマ教皇ベネディクトゥス14世によりコロッセオは神聖であるとして保存されるようになり、1900年を越えた現在ではローマはイタリアの一都市となってしまいましたが、コロッセオは今もって古代ローマの象徴でありつづけています。

コロッセオの絵

 後世になって、表面の大理石が持ち去られ、アレーナ(床面)も失われ、現在のような姿になってしまいましたが、むき出しになった地下には、獣の檻や、器材、道具置き場として使われた小部屋や、大がかりな舞台装置をみることができます。

 現在外周は半分程度しか残っていませんが、古代の完全な状態に再現しようとする動きはなく、このままの形で保存されていくと考えられています。

 フラウィウス朝の皇帝が建設者であることから「フラウィウス闘技場」(フラウィウス円形闘技場)が本来の名前でしたが、ネロ帝の巨大な像(コロッスス)が傍らに立っていたためコロッセオ(コロッセウム)と呼ばれるようになったといわれています。

 ちなみに、コロッシアムの語源はコロッセオ(コロッセウム)です。

パラティーノの丘

 ローマには7つの丘があって、その中で一番古いとされるのがこのパラティーノの丘で、フォロ・ロマーノとチルコ・マッシモ(大競技場)の間にあります。

 古代にはローマ建国の英雄ロムルスとレムスがかつて住んだとされ、貴族の邸宅が数多くあり、のちに初代皇帝アウグストゥスを筆頭に歴代の皇帝が独占したため、英語で宮殿(パレス)を意味する語の語源となりました。

フォロ・ロマーノ

 フォロ・ロマーノは、ローマにある古代ローマ時代の遺跡で、紀元前6世紀頃から300年ころにかけて、国家の政治・経済の中心地であったが、ローマ帝国が東西に分裂し、首都機能がラヴェンナに移されると異民族の略奪に曝されるようになり、西ローマ帝国滅亡後は、土砂の下に埋もれてしまった。

フォロ・ロマーノ

 フォロ・ロマーノの発掘は、19世紀から本格的に行われるようになったが、帝政時代初期までに開発が繰り返されており、遺構も様々な時代のものが混在しているので、発掘調査は難しく、現在の遺跡は、大部分が帝政時代以降のものである。

 古代ローマでは、たいていの都市に政治・宗教の中心としてフォルム(英:フォーラムの語源)と呼ばれる広場が置かれていたが、このフォロ・ロマーノは首都に開設された最初のフォルムであり、最も重要な存在であった。

 ローマでは、後に諸皇帝によっていくつかのフォルムが建設されたが、3基のバシリカと元老院議事堂を備えたフォロ・ロマーノは、そのなかでも中心的存在として機能し続けた。

 現在、敷地の北東にはフォーリ・インペリアーリ通りが通り、南側にはパラティーノ(古名パラティヌス)の丘が聳え、その頂きに皇帝宮殿(ドムス・アウグスタナ)がある。

 北西部はカピトリーノ(古名カピトリヌス)の丘に通じ、東に進むと、有名なコロッセオに、西に進むとテヴェレ川に至る。

サンタ・マリア・イン・コスメディン教会

 「真実の口」が聖堂にあることで有名。この骨董の正体は柱廊玄関にあった下水道のマンホールという説が有力とされている。保存状態は現存する中世初期の中では非常によく、コスマテスク風(Cosmatesque)の舗装が見事です。

 この教会はヘラクレス神殿の上に建てられて、8世紀にはビザンツ帝国の偶像破壊運動から逃れてやってきたギリシャ人修道士によって、ギリシャ正教会として使用されていて、12世紀に鐘楼が取り付けられたそうです。

 典型的なバシリカ建築で、鐘楼はロマネスク様式を模している。床はコズマーティ様式の大理石モザイクで飾られています。

トレヴィの泉

トレヴィの泉全景

 ローマにあるバロック時代、最大の人口の泉で、ポーリ宮殿の壁と一体になったデザインで、中央には水を司る「ポセイドン」が立っています。

 後ろ向きでコインを投げ入れると、再びローマを訪れることができるという言い伝えで有名なこの泉は「三叉路」と言う意味で、泉の前から3本の道が延びているのが、名前の由来です。

スペイン広場と階段

バルカッチャの噴水

 ローマにある広場で、名前の由来は、すぐ近くにあるスペイン大使館にちなんで名付けられ、広場の中央には、「バルカッチャの噴水」があります。

トリニタ・ディ・モンティ教会へとつづく階段、通称「スペイン階段」

 東にはトリニタ・ディ・モンティ教会へとつづく階段、通称「スペイン階段」、があり、西には高級ブティック店の並ぶ、コンドッティ通りがあります。

真実の口(ボッカ・デラ・ヴェッラ)

真実の口(ボッカ・デラ・ヴェッラ)

 真実の口は、ローマにある石の彫刻で、ローマのサンタ・マリア・イン・コスメディン教会(Santa Maria in Cosmedin)の外壁、教会の正面柱廊の奥に飾られていて、元々は下水溝のマンホールの蓋であったらしく、海神トリトーネの顔が刻まれています。

 手を口に入れると、偽りの心がある者は、手を抜く時にその手首を切り落とされる、手を噛み切られる、或いは手が抜けなくなるという伝説があり、映画『ローマの休日』では、グレゴリー・ペック扮する新聞記者のジョーがアン王女を驚かそうとして、伝説に基づき悪ふざけで「真実の口」に手を入れて、抜けないという演技をした。

 複製品がローマの三越店内にあり、日本からの観光客を中心に写真撮影をしている風景がたびたび見られるが、映画『マトリックス・レボリューションズ』に登場するデウス・エクス・マキナは真実の口を模したような姿で登場しています。

パンテオン

パンテオンの正面

 最初のパンテオンは紀元前25年、初代ローマ皇帝アウグストゥスの側近マルクス・ウィプサニウス・アグリッパによって建造されたが、このパンテオンは、後に火事で焼失しました。

 2代目のパンテオンは118年から128年に掛けて、ローマ皇帝ハドリアヌスによって再建され、現在、ローマで見ることが出来るのはこの再建されたパンテオンです。

 建物は、深さ4.5mのローマン・コンクリート基礎の上部に直径43.2mの円堂と半球形のドームが載った構造で、壁面の厚さは6mもあり、高さによって材質を使い分けており、ドーム上部は凝灰岩と軽石を素材として用い、その厚さは約1.5mです。

 床からドーム頂部までの高さは直径と同じ43.2mで、頂上部分には直径9mの天窓オクルス(oculus:ラテン語で「目」の意)と呼ばれる採光のための開口部があります。

 ローマ神が信じられなくなったあとも、この象徴的な空間性によって、608年頃にはキリスト教の聖堂となり、建物自体が非常に改築されにくいものだったので破壊を免れました。

 パンテオンはあのミケランジェロが「天使の設計」と賞賛した神殿で、紀元前27年~25年にアグリッパが建て、118年にハドリアヌス帝が再建しました。

 パンテオンとは「すべての神々」という意味だそうで、現存するローマ建築の中で最も完全な形をとどめ、祭壇にはラファエッロとヴィットリオ・エマヌエーレ2世などの棺が安置されています。

 入場は無料です。

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